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e 眠れぬ夜の眠れるお話   

お月様もお星様もお空の遠くに飛ばされて

時計の針だけがひとりぼっちで先回り

そんな眠れぬさびしい夜は

どうかわたしのおはなしに

こころ傾け 揺られてごらん

不思議な夜は あなたを連れて~

夢のお馬車は あなたを乗せて~




1 * 天窓の微笑み *


「ねえ・・・聞いてる?」
たった今女の中で果てたばかりの男の髪をいとおしむように撫でながら
女は語り始めた。

   彼女はね・・・そう彼女は美しいというよりは、
   どこかしら儚げでそれでいて憂いを秘めた少し陰のあるヒトだったわ。
   わたしは出逢った時から彼女に惹かれていたのよ。
   だから、彼女がわたしを誘った時もすぐについていったわ。
   彼女の指差す方へ、彼女のその足跡を辿るようにね。
   彼女が招いてくれたのは素敵なアトリエ。

   わたしが手持ち無沙汰にしていると、
   彼女は口移しに不思議な色のお酒をわたしに注いでくれたの。
   なんだかライムのような少しつんと清ました香りがしたわ。
   わたしが一息にそのお酒を飲みこんだので、彼女は面白がって笑ったの。
   とても嬉しそうだった。なんだか急に恥ずかしくなってわたしがうつむいていたら
   今度は彼女はわたしにそっとキスをくれたわ。

わたしは一変に酔っ払ったみたいだった。
   だからもうその後は夢のようで・・・気がつくとわたしは真っ裸のまま
   アトリエのキャンバスの前の大きな木の台に寝かされていたの。
   わたしを見おろす彼女の瞳がとても綺麗だったわ。
   裸のわたしを抱こうと、彼女がひんやりとしたその指先を

わたしの胸元に延ばしたので、わたしは思わず目を閉じたのよ。

   そしてもういちどわたしが目を開くと
   ・・・わたしの腕の中にはあなたがいたの。 
   あなたの愛があったのよ・・・・・・ああ、わたしの愛しいひと!
   ほら、ごらんなさい。あの天窓から彼女が微笑んでいるわ。


売れない絵描きが見上げた夜空には、
糸のような細い月がふたりの愛を
密やかに見守っておりました。


# by kuki-eme | 2024-05-04 15:17 | Comments(0)

e 「オシオキ」…例えば妙子の場合   

「オシオキ」…例えば妙子の場合

 

妙子は犬が苦手だった。

こどもの頃だ。可愛がっていた飼い犬に手を噛まれた。頭を撫でてあげようとしただけだったのに、犬は妙子の左腕に鮮血を迸らせる程の深い傷跡を付けたからだ。父や母は言った。「利き腕の右手じゃなくって良かった」と。でもいまでも左腕の神経のどこかが麻痺してしまったのか、一年中左手の指先だけが冷たい。

にも関わらずだ。綾は妙子に犬を預けにやって来る。いや、預けるというより“オシツケ”に来るのだ。それが今年で丁度八年目になる。

-*-

綾の夫は建築士をしている。就職して数年は大手の建設会社に勤務していた。が、それでは自分の独創的なアイデアが活かせないからと、独立して自宅を改造し設計事務所を開いて十年。趣向を凝らした彼の設計の手腕もあって最初は面白いように仕事が入った。が、事務所を開設して一年半ほどしてからだ。景気が低迷し始めたのと一緒に、経営は下り坂を滑り落ちるようにどんどん傾いていった。

綾が犬を飼い始めたのは丁度その頃。

元々が綾は犬好きな女だった。こわごわ犬の手綱を握る妙子に当てつけるように綾は甘え声で犬を抱きよせこう言うのだった。

「あぁん、あたしには信じらんないわぁ!こんな可愛い子が好きになれないなんてぇ…」

そしてこうも言った。

「それにね犬ってね、意外と馬鹿にしたイキモノじゃないのよ。いい犬はそりゃお値段もいいわよ。でもね、彼らはその何倍もちゃあんと“恩返し”をしてくれるのよ」

そうなのだ。綾が飼うのはいつも雄犬。それも純潔種の、血統書付きの名犬ばかり。

だが種犬としての役目を果たせなくなった途端だ。彼らはいつの間にか綾の家から居なくなった。

けれど、綾が犬を飼い始めたのにはもうひとつ大きな理由があった。

犬は自宅に愛人を呼べなくなった彼女の「アイビキ」の為の、大事な小道具でもあったのだ。その“小道具”のお守り役。それが、……妙子だった。

犬嫌いの妙子。彼女がどうして八年もの長い間、、綾からそんな嫌な役目を押し付けられなければならなかったのか。それにはちゃんとした理由があった。

あれは高1の秋だった。文化祭の準備で下校時刻がいつもより遅くなった。その帰り道いきなりだった。妙子は見ず知らずの男に犯されたのだ。

妙子は十五歳にしては小柄でドコカ幼さの残る少女のようなあどけない娘だった。そんな純真無垢な娘が好みだったのか、その男は以前からずっと妙子に眼をつけていたらしい。

陽が落ちて辺りが薄闇に閉ざされたその時だ。漸く男が待ちに待った、自分の欲情を満たせる時が来たのだった。それはまさに逢魔ヶ時というべき時刻。辺りに人の気配がないのを確かめると男は背後から妙子の口を押さえつけた。抗う事もできないまま妙子は傍の廃屋の中に連れ込まれたのだ。そこはかねてから男が選びぬいていた場所だったらしい。

顔中に覆面をしたいかり肩のその男は己れの欲望を放出すると一目散に廃屋の裏から立ち去った。ひとり置き去りにされた妙子はしばらく放心状態のままでいた。身も心も汚された妙子。彼女が這いずるように廃屋から外に出て来た、丁度その瞬間だった。たまたま通りかかった一人の女性が居た。彼女はすり汚れたセーラー服姿の、今にも崩れ落ちそうな妙子を抱きとめてくれた。そう、その女が…綾だったのだ。

その頃の綾はまだ「優しさ」を持ち合わせている人間だった。同姓として屈辱の痛みを受けた妙子に同情してくれた。泣きじゃくる妙子を近くの公園連れて行きベンチに座らせると肩を抱き寄せ賢明に妙子を介抱してくれたのだった。

「どうする?警察に行く?」

綾はそう聞いたが妙子は唇を噛んだまま首を振った。

そんな妙子に綾はこう諭した。

「単なる事故。そう思いなさい。命があっただけでもめっけものだったかもよ」

妙子がその“心優しい恩人”の名を聞き忘れたことはずっと後で気付いたことだった。

              ―*

それから八年後の春だった。

その日は二十三歳になったばかりの妙子の結婚式だった。

披露宴のテーブルで、曰くありげな笑みを浮かべ妙子をじいーっと見つめる女の視線を妙子は捉えた。途端だ。妙子のからだがぶるっと震えた。妙子の脳裏にあの日が蘇った。思わず目を伏せると花嫁衣裳の妙子はうつむいて、彼女の視線から心をそらした。

「ほんと…偶然ってあるのねぇ。まさかあの時のあなたがよ、従兄の正さんと結婚するなんて…うふふ」

正は歳はまだ三十二歳と若かったが、世に言う青年実業家の端くれだった。彼は成人してまもなく相次いで両親を亡くした。生前父親は銀座で糸屋を営んでいた。明治元年より創業という地方でも名の知れた老舗だったらしいが、所詮は「糸屋」だ。その店を存続していくよりはもっと時代のニーズに合った仕事がしたい。彼は父親の死後まもなく八十坪程の古びた店を取り壊すと、その跡地にビルを建てた。そして貸しビル業を営むようになった。場所は銀座の一等地だ。何もしなくても正の年収は年を追う毎にどんどん増えていった。

妙子は元々が気性のおとなしい娘だったが、あの事件以来以前にも増して引っ込み思案になった。実家は世田谷の駅から外れた住宅街の中で小さな花屋を営んでいた。短大を出ると妙子は店を手伝いながら、月に二回ほど華道教室に通っていた。別に妙子が望んだからではなかった。隣町で教室を開いているお師匠さんは店の上客でもあったからだ。

正はそのお師匠さんの甥っこだった。

「いつまでも一人にしておいたら、あなたのお母様があの世で嘆くわ」

正の両親は数年前に他界していた。一人っ子だった彼にとっては彼女が一番近しい身内だった。

そうなのだ。妙子は数多くの生徒の中からお師匠さんに選ばれた、正の花嫁候補だったのだ。

正は叔母の言葉に素直に従い妙子と見合いをした。細身だが精悍な面立ちの正に妙子は一目で好意を感じてしまった。正は正で思っていた。今までの遊び相手のような女たちとは全く異なる清楚な女。そんな従順で可憐な妙子を妻に迎えることは彼自身の社会的価値を上げるはずだと。

そうしてその結婚話は何の支障もなく進められていったのだ。

妙子にとっては、綾は恩人のはずだった。そう“あの時”…は、だ。

けれど正の妻となった今は、綾の存在はある種“恐怖な存在”に変わった。

自分があんな目にあった事は誰にも話してはいない。無論親だとて知らないコト。

アレは妙子一人の胸の内に埋めた秘密のはずだった。…そう、綾が再び妙子の目の前に現れるまでは。

綾が自宅に出入りするごと、妙子はびくつくようになった。

そんな妙子の怯えを知ってか知らずか、「美味しいいケーキ屋さん見つけたのよ」とか「ねぇ、珍しいジュエリーが手に入ったのよ、見せてあげるわ」

そんな品々を手にしては綾は頻繁に妙子の家に出入りするようになった。

そして二年の月日が過ぎた。その二年間、妙子の不安をよそに、綾はあの事件に触れるようなことを口にする事は一度もなかった。

だが綾はさり気なく妙子に対して棘を含んだような羨望の言葉を吐いた。

「妙子さん、それにしてもあなたって運のいい人よねぇ。正さんみたいな人と一緒になれてさ。あたしんちみたいに、毎月入ってくるお金の心配をする事もないしぃ、お気楽奥様でいられるんだものねぇ……」

自分が“お気楽主婦”かどうかはともかく、確かに資産はあり余るほどあるし、毎日の生活も安定している。それに夫は仕事が終わると、毎晩必ず六時半には帰宅する真面目人間だった。

それでも妙子にしたら彼女なりの悩みはあった。なぜか夫婦の間に子が授からないことだ。

子どもが出来ないのは自分のせいに違いない。きっとあの時、子宮のどこかが傷つけられたからだ。そう思うと妙子は悲しくなった。そして街で妊婦に出会ったりするたびに妙子は自分の過去を悔いた。

それにあんな過去さえなければこんな風に…綾にこき使われることもなかっただろうし、子どもだって授かったかもしれないと。

だから毎月生理になると妙子はこうべを垂れた白いシクラメンの花のように夫に頭を下げ「ごめんなさい」を繰り返した。

けれど夫は優しい男だった。そんな妙子を正は柔和な笑みを浮かべながらこう言って慰めてくれた。

「なぁに、こんな世の中だ。子どもなんてめんどっちいもの、俺は居なくたって別に平気さ」

「でも…ホントは一人くらい跡継ぎが欲しいって思ってるんでしょ?」

すると夫は妙子を抱き寄せこう囁くのだった。

「その逆さ。俺、昔っから子どもはどうも苦手でね。妙子、お前さえこうして俺の傍に居てくれれば…それで十分に満足なのさ」

派手な洋服や宝石も身につけず、白いレースのエプロン姿で甲斐甲斐しく主婦業に勤しむ妙子に夫はこうも言ってくれた。

「この家は広い。掃除だって大変だろう?お手伝いを雇えばいいじゃないか」

けれど妙子は他人に自分の家を弄られるのは嫌だった。

誰にも気兼ねなどせず、自分の好きなように家事をこなし、そして何よりも好きな本をいっぱい読みたかった。

そう…いまは読書が妙子の唯一の趣味だった。書庫に本がいくら増えても正は文句一つ洩らしたことはなかった。

正も本の中に浸る妙子の傍らに寝転びながら経済雑誌を読み漁ったりしていたし、そうでない時は、独り地下の防音壁に囲まれた部屋でクラシックに浸っていた。そんな知的で包容力のある夫を妙子は心から信頼し愛していた。

綾はといえば…まさに熟した無花果のような45歳。男が好む豊満でフェロモンをぷんぷんさせている肉体の持ち主であるオンナになっていた。夫との性生活だけでは満足できない女のサガを抑えられない人種でもあった。

だから綾は夫に隠れ他の「オトコ」たちと遊ぶ愉しみに時間と金を惜しまなかった。

それでも夫の事務所の経営が思わしくなくなった時は「どうしよう」真剣に悩んだ。そんな綾に知人が勧めてくれたのがブランド犬の雄犬を飼うことだった。丁度“種撒き”にいい頃合になったら、雌犬を飼う家に一週間ほど犬を貸しだす。それだけで犬は綾の男遊びの軍資金を、時にソレは夫の収入以上にたっぷり稼いでくれるのだった。

急に生活が苦しくなったせいで欲深なオンナに変身してしまった綾。彼女は思っていた。

いっそ、妙子におねだりしてやろうか…と。

けれど綾はその思いをぐっと飲み込んだ。彼女の頭脳明晰な頭はもっと先の事を考えていたのだ。妙子を自分の配下に置いておく方が、後々きっと自分の為になる…と。

…あんな世間知らずの小娘、利用しない手はないわ。そうよ、ちゃあんと“恩返し”して貰わなくっちゃね。

うふふ。そうだわ。一石二鳥の手があるじゃないの!男たちとの情事の間、妙子に犬を預かってもらえばいいんだわ。

そうして「犬と妙子」が結び付けられた。そんな訳だった。

これも偶然のことなのだが、綾の住まいは「新居」となった妙子の家とは眼と鼻の先だった。

けれどまだその時、綾は妙子がそんな“犬嫌いな人種“だとは知らないでいた。

「ねっ、ほんの二時間くらいだからさ。、構わないでしょ?」

そうして綾は妙子が「嫌だ」と言えるはずがないのを承知で、必ず月に1度は妙子の家に犬をオシツケに来るようになったのだ。

だからといって妙子の綾に対しての不安の材料が減った訳ではない。 “過去”を暴露される不安から“犬”に触れなければならない現実の恐怖にと擦り変わったにすぎなかった。

初めて綾が妙子の前に犬を連れて来た時だった。思わず後ずさりしながら綾に半泣きの顔を見せていた。それは“あの日”、妙子が縋りつくように綾に向けたのと同じ表情でもあった。

―…ああ、なんてことなの?……寄りにもよって私に犬を押し付けに来るなんて!!

               -*

「今日はお天気もいいし、少し遠出させてくるわね」

綾は夫にそう言って犬を愛車にのせてこっちにハンドルを回している頃だわ。

そう思いながら妙子が読みかけの推理小説から少しだけ心を離した。と、同時だった。門のチャイムが,犬の遠吠えの様に妙子の耳に響いた。

…あら、今日は随分と早いこと。

妙子は渋々本の頁に栞を挟むと、出窓の上にその本をぽんと置いた。

そのあとの妙子はまるで客を迎えるメイドのようだった。ソファーからすくっと立ち上がると、慌ててリビングの壁に設置してある門のオートロックを解除した。そしていそいそと玄関に向かって小走りに駆け出した。と、不意に喉元から苦い笑いがこみ上げてきた。綾の小間使いのような自分がなんだか急に滑稽に思えたのだ。

ほくそ笑みながらも妙子は自分に言い聞かせていた。

…でも、今日でこんな役目も“オシマイ“だわと。

綾より先に玄関に飛び込んで来たのは、ポインターの子犬だった。勿論この子も雄だろう。白と黒のマダラ模様の犬は雌の臭いを探るように妙子のスカートの中に鼻先をぐいっと入れてきた。思わず顔を顰(しか)めた妙子の手が犬の鼻面を払いのけた。

「ま、イジワルなおばちゃまだこと!…レオンたら、かわいちょうにねぇ」

両手で子犬の頭を庇うように撫でながらも、綾の黒いアイラインでくっきりと縁取られた眼は、ねばついた矢を放つように妙子を睨みつけていた。

「ね、いい。絶対紐なんかで縛りつけたりしないでよ。お宅は高くて頑丈なコンクリート塀に囲まれててプライバシーも守れてるし、家も庭も広いんだもの。…門さえ施錠しとけば逃げ出せないんだしね」

要は綾はこう言いたいのだ。『散歩させずに家の中のどこでも好きなところで遊ばせ、そして排泄をさせろ』というのだ。なぜならその“排泄物”は綾にとっては散歩のダイジな「証拠品」になるのだから。

『散歩させずに』というのにはちゃんとした理由があった。

三ヶ月ほど前のことだ。ウルフという名のラブラドールを預かった。

近くの公園を散歩させていた。まだ子どもだと言っていたが大きさは柴犬の成犬ほどあり、結構力の強い子だった。その犬のパワーのせいと、真夏の陽射しの強さに華奢な妙子は負けた。急に目眩に襲われた彼女は散歩道から逸れて木陰に入った。ハナミズキの幹にもたれるように腰を下ろし目を閉じた。しばらくして目眩が治まった妙子が目を開け、何気無しに馳せた視線の先だった。横断歩道の手前、信号が赤だったのかブルーグレーのポルシェが止まった。運転席に座っている女の横顔はついさっき自分が見送ったばかりの綾だった。

煙草をくゆらせる“オトコ”を助手席に乗せた彼女の車は妙子に見られていることも知らず、信号が青に変わるとあっという間に駆け抜けて行った。と、今度はさっきより酷い目眩が妙子をを再び襲い掛かった。その途端だった。握りしめていた犬の手綱が妙子の手からするりと放れた。

自分が自由になったコトに気づいた犬はさも嬉しそうにふさふさした尾を撥ねながら駆け出して行った。そしてカレは公園の池の淵をゆったりと散歩中の、チワワを抱く老人にいきなり襲い掛かったのだ。背を丸めた老人と子犬は走り寄ってきた犬の不意の襲撃に慌てふためいた。妙子が呆然としている間だ。老人と子犬はドボンという水音と共に池に落ちた。

池は浅く、幸い老人は掠り傷だけで済んだ。が、チワワは肺に水が入ったのが原因で死んだ。

…妙子にしたら、これも“偶然”が仕掛けたオゾマシイ結果だと思った。

怒り狂った老人は飼い主である綾に膨大な慰謝料を吹っかけてきた。

散歩させていたのが妻だと信じきっている綾の夫は、早速友人の弁護士に頭を下げた。

「友人面して、あいつ、しっかりと金はふんだくりやがった。いいか、もうこんなメンドウ事はごめんだぞ」

そう夫に怒鳴られながらも綾が何とか旨く事を丸く収めてもらえたのはつい先月の事だった。

……あんな事があったんだもの、綾はもう犬を預けには来ないだろう。

妙子はそうタカを括っていた。が、それは甘かった。

「明日、そうね、時間は三時でどうかしら?」

懲りもせず綾は又新しい犬を飼い始めた。

そうして妙子が家中の掃除やら洗たくやらの家事を終え、…さてと、ゆっくりと読書に浸ろうかしら。そう思っていた昼過ぎだった。綾が電話をかけて来たのだ。

いつもの、有無をうわせぬ、あの妙に甘ったれた声で。

                  

*

「…いいなぁ、きみのカラダは。ちょっと触れただけなのにさ。“ラブジュース”が滲み出ているぜ。ほら見てみろよ、この指の先っぽを」

男の手は女のカラダから溢れ出た愛液を見せ付けているらしい。

「同じ女でもこんなに“アソコ”の具合が違うとはね。アイツのなんかオソマツなもんさ」

カシャッ。これは多分男のオイルライターの開く音だ。

「あら、それはお気の毒さまだこと。あたしだってそう。旦那とじゃ、この煙草ほど。なぜかちっとも燃えやしない。…それにしてもどんなにか待ち遠しかったかしれないわ…この三ヵ月が」

煙草を吸っているのは女のようだ。

「俺だっておんなじさ、ふぅ~~」

いつのまにか女の煙草は男の口に移ったとみえる。紫煙を吐く太い息が漏れる。

「おい見ろよ、また背伸びし出したぜ、俺のムスコのやつが。あはは」

「ねえ、それにしても“この子”に子種がないってこと…奥様ご存知なの?」

「ご存知も何も、どういう訳だか、子に恵まれないのは自分のせいだと勝手に思いこんでいるんだ」

「ふぅん。…痛手ってヤツかなぁ」

「何だ、“イタデ”って?」

「あっ!ううん、違う違う。あたしのいい間違いよ。晩生、そうよ“オクテ”なのよ、彼女」

「それにしても俺も馬鹿だったよ」

「それこそあなたのはイタデじゃなくって若気の“いたり”ってヤツじゃないの?」

「まだ学生の頃だった。一度、しらぬまに“種犬”にされちまったことがあってな。金を貰うどころか、その時は相手の親に随分と大枚をふんだくられたんだぜ」

「いいじゃないの、払える御身分だったんだもの。でもそっかぁ、それで『カット』しちゃったっていう訳ね?」

「ふん、そんな興ざめな話はもう止めだ」

…と、『ジュッ』男の手が灰皿の中に押し潰したのか、煙草が一声、最後の呻き声を吐いた。

「ねえ、それよりその淫乱で毒の蜜に満ちたきみの唇でさ、俺の子どもをもう一度包み込んでくれよ。この俺の“種無し放蕩息子”をさ」

「ええいいわよ。従姉のあたしをこんな従順なオンナにさせちゃうなんて、ホント、この子ったら『い・け・な・い・子』よね」

「何言ってるんだい。淫靡な花びらを押し広げて清廉潔白なこの俺を“間男”に仕立て上げたのは、一体どこのどいつだ?」

「あぁん、もうガマンできないわ、ねぇ、あなた、早くちょうだぁい!」

男は再び女のカラダに喰らい付いたようだ。

              -*

「あら、綾さん、ワンちゃんに舐められたからじゃないこと?せっかくのマスカラが剥がれて乱れちゃってるわよ」

「まぁ、ほんとぅ?やだぁ…そんなぁ」

「お出かけになられる前に洗面所でお化粧直していらっしゃるといいわ」

妙子が綾を旨く化粧ルームに追いやったほんの数分の間だった。妙子は綾のバッグの隅っこにすばやく盗聴器を縫い込んだ。性能がいいのか、その小指の爪ほどの小さな精密機器は綾と男の逢引きの一部始終を妙子の耳元に届けてくれていた。

…そう、彼らの息遣いも、絶頂のヨガリ声も、何もかも全ての行為を一つも漏らさずだ。                 

*

秋も大分深まったようだ。秋の日はつるべ落としというが本当にその通りだ。ついさっきまで赤く色づいていた町の景色は、瞬く間に夜の暗幕に覆われた。

「ギギーー!!」

鈍いブレーキ音と共に車のドアが大きくパタンと開いた。

情事の名残りを引きずるようにけだるそうに車から降りた綾。そんな彼女の眼が、開け放った門の前に佇む一人の人影を捉(とら)えた。

「誰?…妙子なの?」

闇にまだ眼が慣れていないのだろう。綾が人影に向かってそう尋ねた。

黒い竹箒のような細い影はその場に突っ立ったまま頭をこくんとさせた。

「まだ六時前なのに、陽が落ちるのが早くなったわねぇ。秋もだいぶ深まったしね。で、レオンちゃんはいい子してた?」

すると綾のその問いかけを否定するよう。黒い影のてっぺんは何度も横に振られた。綾の目に映った妙子の長い黒髪はまるで暴風雨に晒されたようだった。髪の束は大きく左右に波打っていた。

と同時に闇の中、焚き染めた香のようなたおやかな声が漂い始めた。それは妙子の声だったが、抑揚を抑えたその声は、いつもの妙子の声とはまるで違っていた。

「あのね…犯人が何故殺人に至ったのか、丁度ね、主人公の探偵がその訳を語り始めたとこだったのよ。そしたらたまたま電話のベルが鳴ってね。私が傍らの受話器を耳に当てた途端だったわ。…あの子ったらね、まるでその隙を狙ってたようにね、盗み食いをしたのよ。私に断りもなし。勝手に読みかけの本をガツガツと食べちゃったのよ」

妙子の口からはまるでシャボンの泡(あわぶく)のように言葉が次々と膨らんでいく。だが綾には彼女が噴出すそのシャボンたちの意味がまだよく飲み込めないらしい。綾は車の脇に立ちすくんだまま肩をすくめ、仕切りと首を捻っている。

「だからね、つい今しがたよ。あの子を……お仕置きしてやったの」

「お仕置き?」

「そうよ。おかげであの子、すっかりおとなしくなったみたい。だから私も漸くほっとして…それでね、今はココで主人の帰りを待っているの」

「正さんの?」

「そうよ。あの人にもね…“盗み食い”はイケナイ事だってお仕置きをしてあげようかと思ってね」

妙子は手にぶら下げていたモノを綾の目の前に突き出した。と、その時だった。六時になると灯るように設置された門灯や庭の常夜灯が、一斉にぱっと点いた。

綾の目に映ったのは三十センチほどの鎌だった。

尖った鎌の刃先からは赤い雫が雨垂れの様にぽたぽたと流れ落ちている。妙子の周りには大小の塊が幾つか転がっていた。それは血塗れの黒と白の肉の塊りだった。

忽ち辺りは静寂を引き裂く甲高い綾の悲鳴に包まれた。

           -*

……と、妙子はそこで眼が覚めた。

夕べは読み始めたミステリー小説に夢中になって一睡もしていなかったのだった。

つい頁をめくりながらうとうととまどろんでしまったらしい。

出窓のレースのカーテンの向こうでは夕陽がすうーっと空の下に吸い込まれていく。

「くぅん」

犬が鼻を鳴らしながら、妙子の左手の引き攣れの残る傷跡を舐める。

どうやらお腹がすいたらしい。

だが、綾も夫も……まだ戻らない。

それにしても「正夢」とはよく言ったものだ。

灯りの点いていない暮色に染まった部屋の中。

妙子の手には物置から取り出しておいた鎌が一本、鈍い光を放っていた。


# by kuki-eme | 2024-04-15 19:31 | ゑ女の掌編 | Comments(0)

e 【2000字】禁じ手   


                       

【2000字】禁じ手_b0011984_09212199.jpg
 九鬼ゑ女

「行かないで…」

今にも凋んでしまいそうな彬の背中。その背に頬を押し当てそう言いたかった。

私のせいで苛(いじ)められっ子だった彬(あきら)は母親の葬儀が済むと同時に家を出て行った。

彼は定職にも付かず、金がなくなると適当なアルバイトを捜しては、野良猫も寄り付かない崖下の汚いアパートの一室に蓑虫のように暮らすようになった。暮らすというよりは「生息」しているというべきか。部屋は四畳半一間きり。北向きの、いつ行ってもお日様が出入りした跡など何処にもない黴臭い部屋だった。

「頼むから放っておいてくれよ」 

それは彬が私に“最後”に言い放った言葉だった。

                  -*-

 

 母は私が二歳の時、私を置いて家を出て行ったという。祖母からはそう聞かされていた。でも歳を重ねるごとに、少しずつそうじゃない事が分り始めた。

 最初は幼稚園のお遊戯会だった。

「蕗(ふき)ちゃんちはママじゃなくて、どうしていつもおばあちゃんが来るの?」

同じバラ組さんの里絵ちゃんにそう聞かれた。

三歳までは彼女とは家が隣同士だった。二年ほど前、裏山が削られて大きな団地が出来ると里絵ちゃん一家は慌しく新しい団地に越していった。

「しっ!」

人差し指を口に当て里絵ちゃんのママは娘を睨みつけた。青筋を立て引き攣った自分の顔を手で隠すようにして、里絵ちゃんのママは祖母に向かい何度も頭を下げた。祖母は顔色一つ変えずまっすぐに舞台を見ていた。舞台ではユリ組さんの舞踊劇、「舌切り雀」が演じられていて、場面は丁度子雀が舌を切り取られるところだった。 里絵ちゃんは「ねぇ、どうしてぇ?」をしつこく繰り返していた。

「…あんたの舌も切っちまうよ」

声にはしなかったが、祖母の口は確かにそう動いた。

 その晩遅く祖母が父を罵倒している声で眼が覚めた。

「いい恥さらしだよ。隣の亭主にまで股を開く女を嫁なんぞにして!」

その日からだ。子ども心にも母の事は話題にしてはいけないと私は悟った。

 次は中学生の時だった。

「見ろよ。“男好き”の女の娘が男とツルンデイルゼ」

改造したバイクに不良仲間を乗せ、がなり声を飛ばして来たのは、はす向かいの板金屋の息子のシゲだった。たまたま本屋で一緒になった近所のおじさんと家に戻る途中だった。

「放っとけ」おじさんはそう言い残すと、早足に私から遠ざかって行った。

 最後は高三の夏祭り。友人達と神社の境内に並ぶ夜店をぶらついていた私は人いきれに酔ったのか気分が悪くなった。一人境内の裏の楠木の根元で休んでいた時だった。突然背後で声がした。

「おめえも母親似でええケツしてっじゃん」

振り返るとシゲの父親がすぐ傍で嘗め回すように私を見ていた。

「俺もよ、一回こっきりだったけど、おめえの母ちゃんとはええ思いさせて貰ったんだぜ~」

酒臭い息と嫌らしい目つきが煙幕のように私を蓋い、心を面食らわせた。

「男狂いの女でな、何処の男の種か知らねえガキを孕んでよぉ」

見ると彼の親指は「お前がそのガキだ」と私を指していた。

それでも私が首を傾げていると、呆れた顔でこう言った。

「へっ!全く暢気な娘だぜ。自分の母親がオンダサレタその訳も知らずに育っちまったのかい。笑っちまうぜ」

捻れた笑い声は、頭上で炸裂していた打ち上げ花火よりもっと大きく私の心を劈(つんざ)いた。

                  

               -*-

 

 私が彬と初めて出会ったのは中二の初夏だった。梅雨の名残りか、べとついた空気を撒き散らすように小糠雨が降っていた。学校から帰ると玄関に見慣れぬ女物の茶色の靴が一足と、子供用の青い長靴が一足。玄関脇の傘立てには、細かい雨粒に塗れた水玉の傘と黄色い傘が一本ずつ抱き合うように入ってた。

 祖母は私を呼ぶと、右手の折れ曲がった指たちを左手で庇うように言った。

「あたしのリュウマチが酷くなっちまったんでねぇ。お父さんと相談してね、お手伝いを雇うことにしたんだよ」

「澄子です。この子は彬。七歳になります。こちらの旦那さんが親子で住み込んでいいと、そうおっしゃってくれて」

 そして、一年もしないうちだった。澄子は私の“母親”になり、彬はオトウトになった。

彬の不運が始まったのはその頃からだった。私の家族になった彼は格好の標的にされた。

そう、「い・じ・め」という名の…

毎日甚振(いたぶ)られ萎(しお)れて帰って来る彬を介抱するたび、いつしか私の心は彼に傾いていった。

                   

            -*-

 高校卒業と同時に、まず祖母を、その翌年は父を、そして一昨年澄子をあの世に見送った。

見送ったというよりは…オンダシタ。うん、その方が合っている。

私と彬が二人っきりで寄り添って生息する為には彼らは目障りな存在だった。

 祖母はあっけなく風呂で溺れてくれた。父も旨く鴨居にぶら下げられた。

 澄子をオンダス時は少し気持ちが怯んだ。

彼女の別れた夫、つまり彬の実の父親。彼は幼かった彬の躰に煙草の火を押し当てるような酷い男だったという。そんな男から彬を守ってくれたのは誰でもない、澄子だった。

 不甲斐ない父の元に後妻に入ってくれた澄子は心根の優しい女だった。継子だった私のことも彼女は随分と慈しんでくれた。

 だが、既に私の心は彬で溢れ出していた。

……大丈夫よ、彬。これからは私があんたを守ってあげるからね。

そうして私は澄子の車にちょっとした細工をしたのだ。澄子の最後もあっけなかった。

 澄子の一周忌が済み、坊さんが帰るとすぐだった。

「じゃ俺も帰るから」

そっけない素振りで彬は去年と同じように私に背を向けた。

今日こそは…と彼の背にしがみつくように身を預けた。

 十八歳の彬にも私の気持ちは充分わかっていたはずだ。なのに彼は私の心を振り払うように、するりと私から逃げた。

 ……そうだった。あれは夕べのことだった。

開けてくれないドアを無理矢理こじ開けると、私の手は最愛の彼さえも、あの世にオンダシテしまったのだった。

 まさか私に処方されている睡眠薬と錆びたガスコンロにあんな力があるとは思わなかった。

 透き通った彬の後姿をぼんやり眼で追っていると、不意に彼の手を引く澄子の姿が現れた。

澄子は振り向くと私を諭すようにこう言った。

 「蕗ちゃん、駄目、駄目なのよ。だってね、あんたは…この子の本当のオネエチャンなんだもの」

               

※テーマ「オンナがオトコを誘う時」


# by kuki-eme | 2024-04-03 09:22 | ゑ女の掌編 | Comments(0)

e 盂蘭盆ラプソディー   




篠沢・・・そう、篠沢三丁目まで。お願いね。


運転手さん、夕べは賑やかだったわね。

お祭りなんてホント何年振りだったかしら。

あの人はいっつも仕事に追われてて、あたしは拗(す)ねてばっかりで・・・

ふふ。でも意外だったわ。

生きることには不器用なくせに、あの人結構うまいのよ、金魚掬いが。

ほら、見て。この金魚たち。可愛いでしょ?

初めは赤い身を捩じらせ逃げ回っていた。

けど、みんなあの人に追い駆けられるうち、いつのまにかあの人に夢中になってすぐに腰砕けになりながらうっとりとあの人を見つめていたわ、その丸い目玉でね。

「誰かさんみたいに・・・かい?」

耳元に熱い息を吹きかけながらあの人はあたしの腰を長い指でそっと撫であげたの。

それからあの人は真っ赤な林檎飴をひとつ買ってくれたわ。

代わりばんこに、飴を舐め合いながら、あたしたちは若い恋人同士のようにお祭りの夜店の並ぶ境内をぐるぐると歩き回ったのよ。


気がつけば祭りの灯も消えて、あたしはあの人の腕の中にいた。

もどかしく帯を解いた後、あの人は一晩中あたしに素敵な夢を見させてくれたわ。


なのに、翌朝眼が覚めたら・・・

何処にも居ないのよ、あの人が。

でも、あの人の行く先はすぐにわかったわ。

だから、あたしはも一度浴衣(ゆかた)を纏(まと)うと、

こうしてタクシーを拾ったのよ、運転手さん。


「お客さん着きましたよ、ココでいいんですよね」

そうよ、篠沢墓地、ココでいいの。

ほらごらんなさい。やっぱり、いた。あのお墓の前、ね、見えるでしょ?

ちょっと猫背のあの人の後姿が。

やあね、あの人ったら、神妙に手を合わせてる。うふ。


・・・あたしがアソコに居ると思ってるんだわ。

そうね、もうお盆も終わりだものね。

あの人にお別れを言ったら、あたしも帰らなくちゃ、ええ・・・アソコにね。


まあ、運転手さん。何を慌てているの。

乗せたはずの浴衣の女が急に消えてしまったから?

ごめんなさい。驚かすつもりはなかったの。

久しぶりにあの人に逢えて、ついはしゃいじゃったの。


そうだわ、代わりに、この金魚たちを置いていくわね。

ううん、あたしはいいの。

きっと来年もにあの人はあたしの為に金魚を何匹も掬ってくれるだろうから。


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逝く夏のきみが心の涙うた 風に攫はれ 一人盆帰り   ゑ女



# by kuki-eme | 2023-06-05 15:03 | ゑ女の掌編 | Comments(0)

e 誘い水   

                    


「結美がおまえに会いたいといってる。もう…長くないんだ、あいつ」

電話の向こうで奥田の深いため息が聞こえた気がした。

俺は身の回りのものを詰め込むと横浜から金沢行きの夜行バスに乗った。

翌朝終点の金沢駅に着いたとき、意外にも俺を待っていたのは当の結美だった。

「いいのか、出歩いたりして?」

「平気よ。あの人、おおげさに言ったんでしょ?」

結美は俺の心配げな顔を見ながら呆れ顔で笑った。


結美は昔俺たちがよくデートした城址公園に俺を誘った。

肩を寄せ合うように歩く俺たち。

まるであの頃のままの恋人同士のようだった。

「ねえ、健。まだ、あたしのことオモッテクレテル?」

唐突に結美が言った。

「お願い…あたしをあの人から奪い返してほしいの」

俺は足を止めると戸惑いを隠せないまま結美を見つめた。

そこには真剣な眼差しがあった。

「もうじき死ぬ女なんて…嫌?」

木漏れ日から逃れるように自分の顔を覆うと結美は泣き始めた。

俺はそんな彼女を抱き寄せた。

「乳がんだってわかってすぐに全摘。

でもね、もう遅かったのよ。がん細胞はあちこちリンパまで転移してて」

結美はやにわに俺の手を掴むと、その手を自分の左胸に押し当てた。

結美の抉れた胸に触れながら、俺は昔の恋人が急に愛しくなった。

恋人だった結美を俺から奪ったのが彼女の夫。

そう、親友の奥田だった。


翌朝、鄙びた田舎の駅のホームで俺は結美を待った。

けれど約束の時間になっても彼女は来なかった。

結美からの短い手紙が届いたのは年末だった。



あの人、女がいたのよ。

こんなからだでしょ?彼、寂しかったのね。

でもあたし、悔しかった。

みすみす奥田を他の女にとられたくなかった。

だから、あなたを呼んでもらったの。

健と一緒に行くって言ったらね、

あの人、泣くのよ。俺が悪かったって。

女とは別れるから、何処にも行くなって。

だから…ごめん。


俺はようやく結美に“してやられた”ことに気づいた。

結美は俺と付き合い始める以前から、奥田に気があったのだ。

俺は「誘い水」だった。

自分の命が尽きるまで奥田に愛されたかった彼女は、今度も俺という水を誘い出したのだ。

万年床の炬燵の中で寝正月のまま俺の三が日が過ぎた。

翌日の1月4日に奥田から結美の訃報が届いた。


俺は、今、どんな顔をして結美に線香を手向けにいったらいいのか、正直迷っている。




# by kuki-eme | 2023-06-05 14:48 | ゑ女の掌編 | Comments(0)