「オシオキ」…例えば妙子の場合
妙子は犬が苦手だった。
こどもの頃だ。可愛がっていた飼い犬に手を噛まれた。頭を撫でてあげようとしただけだったのに、犬は妙子の左腕に鮮血を迸らせる程の深い傷跡を付けたからだ。父や母は言った。「利き腕の右手じゃなくって良かった」と。でもいまでも左腕の神経のどこかが麻痺してしまったのか、一年中左手の指先だけが冷たい。
にも関わらずだ。綾は妙子に犬を預けにやって来る。いや、預けるというより“オシツケ”に来るのだ。それが今年で丁度八年目になる。
-*-
綾の夫は建築士をしている。就職して数年は大手の建設会社に勤務していた。が、それでは自分の独創的なアイデアが活かせないからと、独立して自宅を改造し設計事務所を開いて十年。趣向を凝らした彼の設計の手腕もあって最初は面白いように仕事が入った。が、事務所を開設して一年半ほどしてからだ。景気が低迷し始めたのと一緒に、経営は下り坂を滑り落ちるようにどんどん傾いていった。
綾が犬を飼い始めたのは丁度その頃。
元々が綾は犬好きな女だった。こわごわ犬の手綱を握る妙子に当てつけるように綾は甘え声で犬を抱きよせこう言うのだった。
「あぁん、あたしには信じらんないわぁ!こんな可愛い子が好きになれないなんてぇ…」
そしてこうも言った。
「それにね犬ってね、意外と馬鹿にしたイキモノじゃないのよ。いい犬はそりゃお値段もいいわよ。でもね、彼らはその何倍もちゃあんと“恩返し”をしてくれるのよ」
そうなのだ。綾が飼うのはいつも雄犬。それも純潔種の、血統書付きの名犬ばかり。
だが種犬としての役目を果たせなくなった途端だ。彼らはいつの間にか綾の家から居なくなった。
けれど、綾が犬を飼い始めたのにはもうひとつ大きな理由があった。
犬は自宅に愛人を呼べなくなった彼女の「アイビキ」の為の、大事な小道具でもあったのだ。その“小道具”のお守り役。それが、……妙子だった。
犬嫌いの妙子。彼女がどうして八年もの長い間、、綾からそんな嫌な役目を押し付けられなければならなかったのか。それにはちゃんとした理由があった。
あれは高1の秋だった。文化祭の準備で下校時刻がいつもより遅くなった。その帰り道いきなりだった。妙子は見ず知らずの男に犯されたのだ。
妙子は十五歳にしては小柄でドコカ幼さの残る少女のようなあどけない娘だった。そんな純真無垢な娘が好みだったのか、その男は以前からずっと妙子に眼をつけていたらしい。
陽が落ちて辺りが薄闇に閉ざされたその時だ。漸く男が待ちに待った、自分の欲情を満たせる時が来たのだった。それはまさに逢魔ヶ時というべき時刻。辺りに人の気配がないのを確かめると男は背後から妙子の口を押さえつけた。抗う事もできないまま妙子は傍の廃屋の中に連れ込まれたのだ。そこはかねてから男が選びぬいていた場所だったらしい。
顔中に覆面をしたいかり肩のその男は己れの欲望を放出すると一目散に廃屋の裏から立ち去った。ひとり置き去りにされた妙子はしばらく放心状態のままでいた。身も心も汚された妙子。彼女が這いずるように廃屋から外に出て来た、丁度その瞬間だった。たまたま通りかかった一人の女性が居た。彼女はすり汚れたセーラー服姿の、今にも崩れ落ちそうな妙子を抱きとめてくれた。そう、その女が…綾だったのだ。
その頃の綾はまだ「優しさ」を持ち合わせている人間だった。同姓として屈辱の痛みを受けた妙子に同情してくれた。泣きじゃくる妙子を近くの公園連れて行きベンチに座らせると肩を抱き寄せ賢明に妙子を介抱してくれたのだった。
「どうする?警察に行く?」
綾はそう聞いたが妙子は唇を噛んだまま首を振った。
そんな妙子に綾はこう諭した。
「単なる事故。そう思いなさい。命があっただけでもめっけものだったかもよ」
妙子がその“心優しい恩人”の名を聞き忘れたことはずっと後で気付いたことだった。
―*―
それから八年後の春だった。
その日は二十三歳になったばかりの妙子の結婚式だった。
披露宴のテーブルで、曰くありげな笑みを浮かべ妙子をじいーっと見つめる女の視線を妙子は捉えた。途端だ。妙子のからだがぶるっと震えた。妙子の脳裏にあの日が蘇った。思わず目を伏せると花嫁衣裳の妙子はうつむいて、彼女の視線から心をそらした。
「ほんと…偶然ってあるのねぇ。まさかあの時のあなたがよ、従兄の正さんと結婚するなんて…うふふ」
正は歳はまだ三十二歳と若かったが、世に言う青年実業家の端くれだった。彼は成人してまもなく相次いで両親を亡くした。生前父親は銀座で糸屋を営んでいた。明治元年より創業という地方でも名の知れた老舗だったらしいが、所詮は「糸屋」だ。その店を存続していくよりはもっと時代のニーズに合った仕事がしたい。彼は父親の死後まもなく八十坪程の古びた店を取り壊すと、その跡地にビルを建てた。そして貸しビル業を営むようになった。場所は銀座の一等地だ。何もしなくても正の年収は年を追う毎にどんどん増えていった。
妙子は元々が気性のおとなしい娘だったが、あの事件以来以前にも増して引っ込み思案になった。実家は世田谷の駅から外れた住宅街の中で小さな花屋を営んでいた。短大を出ると妙子は店を手伝いながら、月に二回ほど華道教室に通っていた。別に妙子が望んだからではなかった。隣町で教室を開いているお師匠さんは店の上客でもあったからだ。
正はそのお師匠さんの甥っこだった。
「いつまでも一人にしておいたら、あなたのお母様があの世で嘆くわ」
正の両親は数年前に他界していた。一人っ子だった彼にとっては彼女が一番近しい身内だった。
そうなのだ。妙子は数多くの生徒の中からお師匠さんに選ばれた、正の花嫁候補だったのだ。
正は叔母の言葉に素直に従い妙子と見合いをした。細身だが精悍な面立ちの正に妙子は一目で好意を感じてしまった。正は正で思っていた。今までの遊び相手のような女たちとは全く異なる清楚な女。そんな従順で可憐な妙子を妻に迎えることは彼自身の社会的価値を上げるはずだと。
そうしてその結婚話は何の支障もなく進められていったのだ。
妙子にとっては、綾は恩人のはずだった。そう“あの時”…は、だ。
けれど正の妻となった今は、綾の存在はある種“恐怖な存在”に変わった。
自分があんな目にあった事は誰にも話してはいない。無論親だとて知らないコト。
アレは妙子一人の胸の内に埋めた秘密のはずだった。…そう、綾が再び妙子の目の前に現れるまでは。
綾が自宅に出入りするごと、妙子はびくつくようになった。
そんな妙子の怯えを知ってか知らずか、「美味しいいケーキ屋さん見つけたのよ」とか「ねぇ、珍しいジュエリーが手に入ったのよ、見せてあげるわ」
そんな品々を手にしては綾は頻繁に妙子の家に出入りするようになった。
そして二年の月日が過ぎた。その二年間、妙子の不安をよそに、綾はあの事件に触れるようなことを口にする事は一度もなかった。
だが綾はさり気なく妙子に対して棘を含んだような羨望の言葉を吐いた。
「妙子さん、それにしてもあなたって運のいい人よねぇ。正さんみたいな人と一緒になれてさ。あたしんちみたいに、毎月入ってくるお金の心配をする事もないしぃ、お気楽奥様でいられるんだものねぇ……」
自分が“お気楽主婦”かどうかはともかく、確かに資産はあり余るほどあるし、毎日の生活も安定している。それに夫は仕事が終わると、毎晩必ず六時半には帰宅する真面目人間だった。
それでも妙子にしたら彼女なりの悩みはあった。なぜか夫婦の間に子が授からないことだ。
子どもが出来ないのは自分のせいに違いない。きっとあの時、子宮のどこかが傷つけられたからだ。そう思うと妙子は悲しくなった。そして街で妊婦に出会ったりするたびに妙子は自分の過去を悔いた。
それにあんな過去さえなければこんな風に…綾にこき使われることもなかっただろうし、子どもだって授かったかもしれないと。
だから毎月生理になると妙子はこうべを垂れた白いシクラメンの花のように夫に頭を下げ「ごめんなさい」を繰り返した。
けれど夫は優しい男だった。そんな妙子を正は柔和な笑みを浮かべながらこう言って慰めてくれた。
「なぁに、こんな世の中だ。子どもなんてめんどっちいもの、俺は居なくたって別に平気さ」
「でも…ホントは一人くらい跡継ぎが欲しいって思ってるんでしょ?」
すると夫は妙子を抱き寄せこう囁くのだった。
「その逆さ。俺、昔っから子どもはどうも苦手でね。妙子、お前さえこうして俺の傍に居てくれれば…それで十分に満足なのさ」
派手な洋服や宝石も身につけず、白いレースのエプロン姿で甲斐甲斐しく主婦業に勤しむ妙子に夫はこうも言ってくれた。
「この家は広い。掃除だって大変だろう?お手伝いを雇えばいいじゃないか」
けれど妙子は他人に自分の家を弄られるのは嫌だった。
誰にも気兼ねなどせず、自分の好きなように家事をこなし、そして何よりも好きな本をいっぱい読みたかった。
そう…いまは読書が妙子の唯一の趣味だった。書庫に本がいくら増えても正は文句一つ洩らしたことはなかった。
正も本の中に浸る妙子の傍らに寝転びながら経済雑誌を読み漁ったりしていたし、そうでない時は、独り地下の防音壁に囲まれた部屋でクラシックに浸っていた。そんな知的で包容力のある夫を妙子は心から信頼し愛していた。
綾はといえば…まさに熟した無花果のような45歳。男が好む豊満でフェロモンをぷんぷんさせている肉体の持ち主であるオンナになっていた。夫との性生活だけでは満足できない女のサガを抑えられない人種でもあった。
だから綾は夫に隠れ他の「オトコ」たちと遊ぶ愉しみに時間と金を惜しまなかった。
それでも夫の事務所の経営が思わしくなくなった時は「どうしよう」真剣に悩んだ。そんな綾に知人が勧めてくれたのがブランド犬の雄犬を飼うことだった。丁度“種撒き”にいい頃合になったら、雌犬を飼う家に一週間ほど犬を貸しだす。それだけで犬は綾の男遊びの軍資金を、時にソレは夫の収入以上にたっぷり稼いでくれるのだった。
急に生活が苦しくなったせいで欲深なオンナに変身してしまった綾。彼女は思っていた。
いっそ、妙子におねだりしてやろうか…と。
けれど綾はその思いをぐっと飲み込んだ。彼女の頭脳明晰な頭はもっと先の事を考えていたのだ。妙子を自分の配下に置いておく方が、後々きっと自分の為になる…と。
…あんな世間知らずの小娘、利用しない手はないわ。そうよ、ちゃあんと“恩返し”して貰わなくっちゃね。
うふふ。そうだわ。一石二鳥の手があるじゃないの!男たちとの情事の間、妙子に犬を預かってもらえばいいんだわ。
そうして「犬と妙子」が結び付けられた。そんな訳だった。
これも偶然のことなのだが、綾の住まいは「新居」となった妙子の家とは眼と鼻の先だった。
けれどまだその時、綾は妙子がそんな“犬嫌いな人種“だとは知らないでいた。
「ねっ、ほんの二時間くらいだからさ。、構わないでしょ?」
そうして綾は妙子が「嫌だ」と言えるはずがないのを承知で、必ず月に1度は妙子の家に犬をオシツケに来るようになったのだ。
だからといって妙子の綾に対しての不安の材料が減った訳ではない。 “過去”を暴露される不安から“犬”に触れなければならない現実の恐怖にと擦り変わったにすぎなかった。
初めて綾が妙子の前に犬を連れて来た時だった。思わず後ずさりしながら綾に半泣きの顔を見せていた。それは“あの日”、妙子が縋りつくように綾に向けたのと同じ表情でもあった。
―…ああ、なんてことなの?……寄りにもよって私に犬を押し付けに来るなんて!!
-*-
「今日はお天気もいいし、少し遠出させてくるわね」
綾は夫にそう言って犬を愛車にのせてこっちにハンドルを回している頃だわ。
そう思いながら妙子が読みかけの推理小説から少しだけ心を離した。と、同時だった。門のチャイムが,犬の遠吠えの様に妙子の耳に響いた。
…あら、今日は随分と早いこと。
妙子は渋々本の頁に栞を挟むと、出窓の上にその本をぽんと置いた。
そのあとの妙子はまるで客を迎えるメイドのようだった。ソファーからすくっと立ち上がると、慌ててリビングの壁に設置してある門のオートロックを解除した。そしていそいそと玄関に向かって小走りに駆け出した。と、不意に喉元から苦い笑いがこみ上げてきた。綾の小間使いのような自分がなんだか急に滑稽に思えたのだ。
ほくそ笑みながらも妙子は自分に言い聞かせていた。
…でも、今日でこんな役目も“オシマイ“だわと。
綾より先に玄関に飛び込んで来たのは、ポインターの子犬だった。勿論この子も雄だろう。白と黒のマダラ模様の犬は雌の臭いを探るように妙子のスカートの中に鼻先をぐいっと入れてきた。思わず顔を顰(しか)めた妙子の手が犬の鼻面を払いのけた。
「ま、イジワルなおばちゃまだこと!…レオンたら、かわいちょうにねぇ」
両手で子犬の頭を庇うように撫でながらも、綾の黒いアイラインでくっきりと縁取られた眼は、ねばついた矢を放つように妙子を睨みつけていた。
「ね、いい。絶対紐なんかで縛りつけたりしないでよ。お宅は高くて頑丈なコンクリート塀に囲まれててプライバシーも守れてるし、家も庭も広いんだもの。…門さえ施錠しとけば逃げ出せないんだしね」
要は綾はこう言いたいのだ。『散歩させずに家の中のどこでも好きなところで遊ばせ、そして排泄をさせろ』というのだ。なぜならその“排泄物”は綾にとっては散歩のダイジな「証拠品」になるのだから。
『散歩させずに』というのにはちゃんとした理由があった。
三ヶ月ほど前のことだ。ウルフという名のラブラドールを預かった。
近くの公園を散歩させていた。まだ子どもだと言っていたが大きさは柴犬の成犬ほどあり、結構力の強い子だった。その犬のパワーのせいと、真夏の陽射しの強さに華奢な妙子は負けた。急に目眩に襲われた彼女は散歩道から逸れて木陰に入った。ハナミズキの幹にもたれるように腰を下ろし目を閉じた。しばらくして目眩が治まった妙子が目を開け、何気無しに馳せた視線の先だった。横断歩道の手前、信号が赤だったのかブルーグレーのポルシェが止まった。運転席に座っている女の横顔はついさっき自分が見送ったばかりの綾だった。
煙草をくゆらせる“オトコ”を助手席に乗せた彼女の車は妙子に見られていることも知らず、信号が青に変わるとあっという間に駆け抜けて行った。と、今度はさっきより酷い目眩が妙子をを再び襲い掛かった。その途端だった。握りしめていた犬の手綱が妙子の手からするりと放れた。
自分が自由になったコトに気づいた犬はさも嬉しそうにふさふさした尾を撥ねながら駆け出して行った。そしてカレは公園の池の淵をゆったりと散歩中の、チワワを抱く老人にいきなり襲い掛かったのだ。背を丸めた老人と子犬は走り寄ってきた犬の不意の襲撃に慌てふためいた。妙子が呆然としている間だ。老人と子犬はドボンという水音と共に池に落ちた。
池は浅く、幸い老人は掠り傷だけで済んだ。が、チワワは肺に水が入ったのが原因で死んだ。
…妙子にしたら、これも“偶然”が仕掛けたオゾマシイ結果だと思った。
怒り狂った老人は飼い主である綾に膨大な慰謝料を吹っかけてきた。
散歩させていたのが妻だと信じきっている綾の夫は、早速友人の弁護士に頭を下げた。
「友人面して、あいつ、しっかりと金はふんだくりやがった。いいか、もうこんなメンドウ事はごめんだぞ」
そう夫に怒鳴られながらも綾が何とか旨く事を丸く収めてもらえたのはつい先月の事だった。
……あんな事があったんだもの、綾はもう犬を預けには来ないだろう。
妙子はそうタカを括っていた。が、それは甘かった。
「明日、そうね、時間は三時でどうかしら?」
懲りもせず綾は又新しい犬を飼い始めた。
そうして妙子が家中の掃除やら洗たくやらの家事を終え、…さてと、ゆっくりと読書に浸ろうかしら。そう思っていた昼過ぎだった。綾が電話をかけて来たのだ。
いつもの、有無をうわせぬ、あの妙に甘ったれた声で。
-*-
「…いいなぁ、きみのカラダは。ちょっと触れただけなのにさ。“ラブジュース”が滲み出ているぜ。ほら見てみろよ、この指の先っぽを」
男の手は女のカラダから溢れ出た愛液を見せ付けているらしい。
「同じ女でもこんなに“アソコ”の具合が違うとはね。アイツのなんかオソマツなもんさ」
カシャッ。これは多分男のオイルライターの開く音だ。
「あら、それはお気の毒さまだこと。あたしだってそう。旦那とじゃ、この煙草ほど。なぜかちっとも燃えやしない。…それにしてもどんなにか待ち遠しかったかしれないわ…この三ヵ月が」
煙草を吸っているのは女のようだ。
「俺だっておんなじさ、ふぅ~~」
いつのまにか女の煙草は男の口に移ったとみえる。紫煙を吐く太い息が漏れる。
「おい見ろよ、また背伸びし出したぜ、俺のムスコのやつが。あはは」
「ねえ、それにしても“この子”に子種がないってこと…奥様ご存知なの?」
「ご存知も何も、どういう訳だか、子に恵まれないのは自分のせいだと勝手に思いこんでいるんだ」
「ふぅん。…痛手ってヤツかなぁ」
「何だ、“イタデ”って?」
「あっ!ううん、違う違う。あたしのいい間違いよ。晩生、そうよ“オクテ”なのよ、彼女」
「それにしても俺も馬鹿だったよ」
「それこそあなたのはイタデじゃなくって若気の“いたり”ってヤツじゃないの?」
「まだ学生の頃だった。一度、しらぬまに“種犬”にされちまったことがあってな。金を貰うどころか、その時は相手の親に随分と大枚をふんだくられたんだぜ」
「いいじゃないの、払える御身分だったんだもの。でもそっかぁ、それで『カット』しちゃったっていう訳ね?」
「ふん、そんな興ざめな話はもう止めだ」
…と、『ジュッ』男の手が灰皿の中に押し潰したのか、煙草が一声、最後の呻き声を吐いた。
「ねえ、それよりその淫乱で毒の蜜に満ちたきみの唇でさ、俺の子どもをもう一度包み込んでくれよ。この俺の“種無し放蕩息子”をさ」
「ええいいわよ。従姉のあたしをこんな従順なオンナにさせちゃうなんて、ホント、この子ったら『い・け・な・い・子』よね」
「何言ってるんだい。淫靡な花びらを押し広げて清廉潔白なこの俺を“間男”に仕立て上げたのは、一体どこのどいつだ?」
「あぁん、もうガマンできないわ、ねぇ、あなた、早くちょうだぁい!」
男は再び女のカラダに喰らい付いたようだ。
-*-
「あら、綾さん、ワンちゃんに舐められたからじゃないこと?せっかくのマスカラが剥がれて乱れちゃってるわよ」
「まぁ、ほんとぅ?やだぁ…そんなぁ」
「お出かけになられる前に洗面所でお化粧直していらっしゃるといいわ」
妙子が綾を旨く化粧ルームに追いやったほんの数分の間だった。妙子は綾のバッグの隅っこにすばやく盗聴器を縫い込んだ。性能がいいのか、その小指の爪ほどの小さな精密機器は綾と男の逢引きの一部始終を妙子の耳元に届けてくれていた。
…そう、彼らの息遣いも、絶頂のヨガリ声も、何もかも全ての行為を一つも漏らさずだ。
-*-
秋も大分深まったようだ。秋の日はつるべ落としというが本当にその通りだ。ついさっきまで赤く色づいていた町の景色は、瞬く間に夜の暗幕に覆われた。
「ギギーー!!」
鈍いブレーキ音と共に車のドアが大きくパタンと開いた。
情事の名残りを引きずるようにけだるそうに車から降りた綾。そんな彼女の眼が、開け放った門の前に佇む一人の人影を捉(とら)えた。
「誰?…妙子なの?」
闇にまだ眼が慣れていないのだろう。綾が人影に向かってそう尋ねた。
黒い竹箒のような細い影はその場に突っ立ったまま頭をこくんとさせた。
「まだ六時前なのに、陽が落ちるのが早くなったわねぇ。秋もだいぶ深まったしね。で、レオンちゃんはいい子してた?」
すると綾のその問いかけを否定するよう。黒い影のてっぺんは何度も横に振られた。綾の目に映った妙子の長い黒髪はまるで暴風雨に晒されたようだった。髪の束は大きく左右に波打っていた。
と同時に闇の中、焚き染めた香のようなたおやかな声が漂い始めた。それは妙子の声だったが、抑揚を抑えたその声は、いつもの妙子の声とはまるで違っていた。
「あのね…犯人が何故殺人に至ったのか、丁度ね、主人公の探偵がその訳を語り始めたとこだったのよ。そしたらたまたま電話のベルが鳴ってね。私が傍らの受話器を耳に当てた途端だったわ。…あの子ったらね、まるでその隙を狙ってたようにね、盗み食いをしたのよ。私に断りもなし。勝手に読みかけの本をガツガツと食べちゃったのよ」
妙子の口からはまるでシャボンの泡(あわぶく)のように言葉が次々と膨らんでいく。だが綾には彼女が噴出すそのシャボンたちの意味がまだよく飲み込めないらしい。綾は車の脇に立ちすくんだまま肩をすくめ、仕切りと首を捻っている。
「だからね、つい今しがたよ。あの子を……お仕置きしてやったの」
「お仕置き?」
「そうよ。おかげであの子、すっかりおとなしくなったみたい。だから私も漸くほっとして…それでね、今はココで主人の帰りを待っているの」
「正さんの?」
「そうよ。あの人にもね…“盗み食い”はイケナイ事だってお仕置きをしてあげようかと思ってね」
妙子は手にぶら下げていたモノを綾の目の前に突き出した。と、その時だった。六時になると灯るように設置された門灯や庭の常夜灯が、一斉にぱっと点いた。
綾の目に映ったのは三十センチほどの鎌だった。
尖った鎌の刃先からは赤い雫が雨垂れの様にぽたぽたと流れ落ちている。妙子の周りには大小の塊が幾つか転がっていた。それは血塗れの黒と白の肉の塊りだった。
忽ち辺りは静寂を引き裂く甲高い綾の悲鳴に包まれた。
-*-
……と、妙子はそこで眼が覚めた。
夕べは読み始めたミステリー小説に夢中になって一睡もしていなかったのだった。
つい頁をめくりながらうとうととまどろんでしまったらしい。
出窓のレースのカーテンの向こうでは夕陽がすうーっと空の下に吸い込まれていく。
「くぅん」
犬が鼻を鳴らしながら、妙子の左手の引き攣れの残る傷跡を舐める。
どうやらお腹がすいたらしい。
だが、綾も夫も……まだ戻らない。
それにしても「正夢」とはよく言ったものだ。
灯りの点いていない暮色に染まった部屋の中。
妙子の手には物置から取り出しておいた鎌が一本、鈍い光を放っていた。